黒猫註:友人によると、この質問状に対するてん末は次のとおりである。
この提言をNHKに送付してから20日間経過しても何の連絡もなかったので、友人がニュース11のディレクタ−へ電話したところ、「アナウンサーは視聴者からの直接コンタクトには応じないことになっている」
とのことである。それならディレクターとしての回答をして欲しいと言ったところ、「自分はその書状のことを知らない」との返事であった。そこで直ちに視聴者サービスセンターを経由して同氏宛にFAXを送信したが、
反応は無かった。
その後、別の友人の紹介により 会長秘書室長へFAXで送付したところ、国際部言語担当から電話があったが、全然話がかみあわなかったものである。
友人の提言から、日本語の乱れは、実は最も日本語に注意を払うべき報道機関の姿勢に顕著であることを、改めて確認させられる。NHKやその他の、誤った日本語使用の例をいくつかあげてみよう。
湾岸戦争のラジオのニュースで、「陣を引きました」と言うアナウンスメントがあった。戦争がはじまったころのことで、やれやれ大事に至らずに済みそうだなと思ったら、実は「陣を敷いた」つまり「布陣した」という全く逆の事態を意味していた。「引く」と「敷く」の言い間違えが戦場の指揮官に起こったら大変なことになる。マスコミの報道が誤解を招くものであてはならないことは、それに劣るものではない。
湾岸戦争の報道のみならず、「バグダッド」を文字どおりに読むアナウンサーは皆無である。カタカナは表音文字として使うのが決まりである。少なくとも小学校や中学校の国語教育では、そう教えている。バグダッドと書いてあるものはバグダッドと読み、バクダットと読んではならないということは、小学生でも承知しているはずのことである。にもかかわらず、日本語の指導者を自認するNHK、それを基準とする民放のアナウンサーは、無反省にバクダットと言い続けている。彼らは文字を読めないのだろうか?
カタカナが表音文字であるにもかかわらず、表意的に用いている例も見受けられる。ballet は英語でもフランス語でも日本語化すれば「バレー」であることは、国語審議会が昭和29年に報告した『外来語表記の原則』の「長音を示すには、長音符号「ー」を添えて示し、母音字を重ねたり、「ウ」を用いたりしない」に明かである。にもかかわらず、放送、報道、出版のほとんどが「バレエ」と表記している。volley
ball の volley を「バレー」と表記し、そう読むこと自体に問題があることは友人の指摘通りだが、「バレー」としてすでに日本語化しているとすれば、ballet
も「バレー」とすべきである。
entertainer を「エンターテーナー」とすべきところ、「エンターテイナー」と表記したがゆえの発音上の誤解も生じている。ある民放の番組で司会者が、「エンターティナー」と、日本語にない音節 [ti] で言った例がある。これは外来語の長音の表記を誤ったことが原因であることは、明らかであろう。たかが外来語の表記の問題であるが、それが日本語の語彙に及ぼす影響と、もととなった外国語の学習に及ぼす影響も考えなければなるまい。
まことに困った問題に、野球の手袋を「グローブ」と言う事実がある。英語を文字として取り入れた結果であろうか?日本語には
b と v の別がないから、globe も「グローブ」となる。腹を立てた選手が「グローブを放り投げた」と言ったとすれば、彼は「球」を放ったと受け取られるだろう。これはNHKや報道機関の問題以上に、教育やスポーツ関係者すべてにかかわる問題であるが、マスコミのもつ影響力で解決可能なものでもある。
報道機関が、それまでの片仮名書きを改めた珍しい例もある。アメリカの元大統領レーガン氏は、俳優時代は「リーガン」と書かれ、一般もそのように呼んでいた。氏がアメリカ大統領に立候補の際、米国内で呼ばれているように改めるとして、新聞を初めとする報道機関が一斉に「レーガン」と改めたことがある。今にして思えば、アメリカ大使館辺りからの外圧でもあったのではあるまいか?国内に大人面を見せながら外圧に屈する政治を批判する報道関係者が、外圧に弱い体質を改めることなくして、国民の支持を得ていいものだろうか?
日本語本来の発音についても、独善が見受けられる。カ行濁音を鼻濁音で発音するという地域性のある発音傾向を、あたかも標準的であるかのように扱うことは、百歩譲って出身地の音韻体系を反映するものと理解できる。カ行濁音を鼻濁音で発音する方言では、語頭に鼻濁音が出現することはなく、語中のカ行濁音は必ず鼻音化する。すなわち鼻韻化するかしないかは、位置関係によって定まっていて、カ行濁音の鼻韻化が意味に変化をもたらすことはない。これを言語学では同一の音素と見なす。しかるに放送中に、数詞の「五」は語中にあっても鼻韻化しないとコメントする民放アナウンサーがいた。例えば「戦後」「銃後」のゴは鼻韻化するが、「千五」「十五」のゴは数詞だから鼻韻化してはならないと言うのである。その上さらに、これが美しく正しい日本語であるから、小学校でしっかり教えなければならないとコメントした。これは音素と異音の混同という言語学的に恐るべき誤りであり、その根底には、自らの方言を絶対的優位に置くという、誤った言語的優越感、言語的差別感が認められる。
テレビやラジオでは、「舌鼓」を「シタツヅミ」と、「油揚げ」を「アブラアゲ」と読んでいる。実際の日本語では、「シタヅツミ」「アブラゲ」と言うのではなかろうか?あるいは言っていたと言うべきかもしれない。マスコミの人々の規範的な言い方が、現実の言語を変えてしまったからである。日本語に連濁という現象があることはよく知られているが、連濁によって濁音が連続することを嫌って、濁音の音節が清音になることは忘れられたようだ。「継ぐ」の語頭音節ツを重ねると、連濁してツヅグとなるところを、濁音の連続を避けてツヅクとなる。同様にして、シタ
+ ツヅミがシタヅツミになる。この現象は例が少ないために、現代では忘れられているかもしれないが、もしシタツヅミをシタヅツミと言い換えないのであれば、同じ規則によってできたツヅクをもツツグと言わなければ片手落ちである。
日本語では、語中に母音が連続することを嫌った。古事記や万葉の時代の唯一の例外は「櫂」しかない。アブラ + アゲはアブラゲとなるはずで、事実現在でもアブラゲと言っている。がしかし、放送では「アブラアゲ」と言うのが規範とされているようである。言語は誤った規範意識によって変革すべき性質のものではなく、使用者の多数がよしとすることを正しいとする。放送に従事する人々が、一般の言語意識と異なった言語規範を持っているというのは、いかがなものだろうか?
日本語を使うことを仕事としている報道や出版関係者に、自らの言語意識への反省を求めたい。言語は時とともに変化して当然であるが、変化を意図的に導くべきではない。言語を共有する集団である国民と共に、反省を加えながら用いていくべきではなかろうか?