継ぐと続くの関係

日本語の連濁を忘れてはいないか?

 日本語の特徴の一つとして、単語が結合して複合語になるとき、後ろの語頭の清音が濁音に変わる現象があり、これを「連濁」と呼んでいる。この事実には否定の余地は無いが、これに関連した事実が専門の学者に無視されることがある。アマチュアの立場から連濁に正面から取り組んで、専門家の誤りを正したい。

 英語などのインド・ヨーロッパ語族の言語には、語頭の音節を重ねる造語法があって、reduplication と呼ばれている。例えば「茶色」を意味する IE 語根 *bher- から英語の bear「熊<茶色の動物」が出たが、同じ語根の語頭の be を重ねて beaver「ビーバー<茶色の動物」が出たなどである。実は日本語にも同じ造語法があって、「千」チから「千々」チヂがあるなど、少し注意深く観察すれば例の多いのに気づくだろう。一例をあげよう。「吹雪き」と書いてフブキと言うのは、実は逆である。フブキは「吹く」の語頭音節フを重ねて、フクの最初の音節を有声化したもので、「吹雪き」は当て字である。ところが漢字の持つ意味から、現在では雪の強く吹き降る様をもっぱらにし、風が吹きに吹く様には「花吹雪」「桜吹雪」のように言うか、「花嵐」というように別語を使うようになった。

 私は学校で国語学を勉強しなかったので、日本語ではこういう語頭の音節を重ねる造語法を何と言うか知らないが、ここでは「重音法」と呼んでおこう。反復形という語もあるが、これは語根の反復を言い、「山」を重ねた「山々」などに適用することにしよう。重音法によると思われる「続く」は、「着く」からなのか、「継ぐ」からなのだろうか。

 


続くと継ぐの関係

 日本語では複合語の第二要素が清音の場合、通常連濁する。「舌」に「鼓」が連結すると連濁するはずである。しかしこの場合は、シタヅヅミではない。言いにくいし、聞きにくいではないか。そこで元々が濁音であったツヅミの第二音節ヅを清音にしてシタヅツミとすることで、通じやすい言葉を作り出してきた。先人の知恵のなせる業であろうか。

 そう考えると「続く」も「着く」ではなく、「継ぐ」の語頭の音節を重ねたと考えるほうが意味が自然である。つまりツヅグでは言いにくいし、聞きにくい。まして、つい300年ほど前までは濁音の前の母音を鼻音化して発音していたのだから、言いにくさは一しおだっただろう。この間の音声表記は、tu + tu~gu → tu~duku となり、接頭辞的についた tu- の母音、もしくは母音の直後が鼻音化される。

 もう一つの例は「さかずき」である。ある国語の先生が、盃(サカヅキ)という単語は「逆月」からで、盃を横から見ればお月さまが逆さになったようだからと言ったことがある。生徒たちは感心して聞いていたが、こちらは寒心そのものだった。生徒の前で教師の間違いを指摘するわけにもいかなかったが、これは「酒」に「注ぎ」のついたサカヅギを避けて、サカヅキとしたものだ。saka + tu~gi → saka~duki という変化があり、複合語の第一要素と第二要素の間、つまり連結部分に鼻音が存在する。「千々」の場合は、ti + ti → ti~di であるから、連結部分に鼻音が発生すると考えることもできよう。

 こういう連濁そのものは失われていないが、細かな決まりはほとんど忘れらている。忘れられたばかりではない、NHKをはじめとして、放送各社のアナウンサーは、舌鼓をシタツヅミというぐあいに、漢字の読みから発音を逆製してはばからない。間違った標準語意識から、本来あるべき日本語の姿を歪めるという結果になっている。こういう例は多く、裸足はハダシと言いながら、油揚はアブラアゲと読むなど、大きな影響力を持ちながら、一貫性のない言語活動で国語の乱れを助長している。

 日本語の系統論では、北方アジア系の言語であるとする立場の学者が多いようである。中でも泉井久之助氏は、日本語をフィノ・ウゴール語族に結び付けて考え、日本語の起原を南方のマライ・ポリネシア語族に求める考えを厳しく批判している。少し長くなるが、引用しよう。e を逆さにした発音記号(schwa と言う)が使えないので E で代用し、スペイン語で n の上にティル(~ のこと)のついたものは n~ で表わした。原文ではカ行半濁音(ngの音)を表記するのにパにつくような丸を肩につけているが、ここでは普通の濁点を用いた。

 

著名な言語学者の言うことには、

 “たとえば、比較言語学を心得ているかぎり、つぎのような事実は、日本語と南方諸語との同系論への悲観的材料とみなければならない。マライ・ポリネシア諸の一つ、マライ語を例にとっていえば、マライではプージ puji「賞賛する」という語に、プ pE- という接頭辞をくわえて「賞賛する人、おべっかもの」という名詞をつくるが、その場合、プージのはじめの p が、これと同じところで調音せられる(同器官的 - つまり唇音的な)鼻音 m と代わってプムージ pE-muji となる、いわゆる鼻音による代償の現象がある。これは t に対してはこれと同じ器官的(すなわち歯舌音的)n としてあらわれるもので、トゥルバン tErbang「飛ぶ」に対して「飛ぶ人」を意味する名詞がプヌルバン pE-nErbang「鳥人、パイロット」になるのも、その別例といえる。

 ところが、スールー suruh「メッセージを送る、指令を伝える」に対して、その行為者を示す名詞「メッセンジャー、伝令」は、プニュールー pE-n~uruh であって、s に同器官的でない n~ があらわれる。これは、一見いかにも不規則にみえるが、もともと原則は同じである。というのは、マライ語の s は、もと t の口蓋化したチまたはチュに近い音、すなわち t' の音であったためで、n~ は t' と同器官的になる。

 こういう鼻音代償の現象は、そのほかの閉鎖音類にあって、有声無声をとわず、本来ひろくマライ・ポリネシア諸語に行われているが、日本語では、かつてこういう現象が存在したことはなかった。すなわち、日本語では、いくらさかのぼっても、そういう現象の痕跡だに見いだしがたい。否、さかのぼっていくと、日本語の構造の呈する姿が、かなり北方的性格のものとなることは、すでにみたとおりである。

 またマライ語には、鼻音前出とか鼻音結合とかいわれる現象がある。たとえば、ドガル dEngar「聞く」という語に接頭辞 pE- をつけて、その行為者的名詞「視聴者、聴き手」をつくるとき、それはプンドンガル pEndEngar の形となり、すなわち、はじめの d- に対して nd- があらわれるのである。これもマライ・ポリネシア諸語に本来的な共通起源的な現象であるが、日本語の文法現象として、かつて体系的にあらわれたことはない。

 

そこで語頭の濁音のことを考えよう

 あなたはこれを読んで、どう感じただろうか?もし、なるほどそうかと思ったなら、もう一度『ウマとムマ』を読んでいただきたい。マライ・ポリネシア諸語と語順は異なるが、日本語にも連濁がある。連濁すれば、すなわち濁音であるから、濁音の前には鼻音が現われる。鼻音とは、d の前では n の、b の前では m の、g の前では ng の音色を帯びることに他ならない。nd, ~d などと表わした、あれである。

 鼻音前出とか鼻音結合と呼んでいる現象は、複合語において結合部分に鼻音が現われることに他ならない。マライ・ポリネシア諸語においては、言語の歴史の中でその現象が類型化され、文法的法則性を持つようになったものである。“日本語では、いくらさかのぼっても、そういう現象の痕跡だに見いだしがたい”と断言し、“はじめの d- に対して nd- があらわれるのである。これもマライ・ポリネシア諸語に本来的な共通起源的な現象であるが、日本語の文法現象として、かつて体系的にあらわれたことはない。と結論できるものだろうか。

 

連濁は正に鼻音結合の一種

 「高い」takai に「小さい」の意味の接頭辞コ ko- をつけてみよう。コダカイkodakaiとなり、16世紀末までは ko~dakai であった。~d は、音素 (phoneme) /d/ の異音 (allophone) であるから、一般に日本語では表記しなかった。上代に ~daku をイダク、ウダク、ムダクと表記し、鼻音要素をイ、ウ、ムで表わしたのは、まだ文字に十分熟練していなかった時代のことである。今日語中のカ行濁音を表わすのに、パの半濁点をつけて辞書の見出しする学者がいるが、たいてい東京山手方言礼讃者で、これも音素と異音の違いを知らない文字未習熟者と言える。同じく「腹」につければコバラとなり、「小腹が空く」のように使う。これも ko~bara である。「刀」につければコガタナ ko~gatana で、現代でも地域によっては g ではなく ng で発音しているほど鼻音化が明かである。17世紀初頭に出版されたジョアン・ロドリゲスの『日本語文典』(普通『日本大文典』と呼ぶが、原典のタイトルに忠実でない)ARTE DA LINGOA DE IAPAM には、co~gatana と読むが concatana と書くのは誤りであるという主旨の記述がある。さらに古くは、現代の東北方言に残っているように、サ行濁音の前でもコザル ko~zaru のように鼻音化したと考えられる。すなわち、日本語には連濁という現象があり、これはマライ・ポリネシア諸語の鼻音前出や鼻音結合と呼ばれるものと本質的に同じ傾向の現象であると言る。

 泉井氏はドイツで言語学を修めたほどの学者でありながら、自らの北方起源説、なかんずくフィノ・ウゴール語族起原説に加担するあまり、文字の表面に現われたことしかとらえていない。言語は文字ではない。生きた言語は口頭のものであり、不自由な文字で総てを表現できるものではないことを忘れてはなるまい。

 

奇妙な一致がある

  氏は“マライ語の s は、もと t の口蓋化したチまたはチュに近い音、すなわち t' の音であった”と述べているが、どうやら日本語のサ行音も、英語式に言えば ch の音にさかのぼるらしい。漢字音の ts' をサ行で受けていることも証拠の一つである。正確に述べるには発音記号の問題があるので、ここでは便宜的な言い方をすれば、中国語のサ行音とチャ行音が日本語ではサ行に収斂されている。「三」サンは中国語ではサムで、「初」ショはチョであるという具合だ。

 もう一つは、樺太アイヌの雅語に残る enchiw「人、男」から「エゾ」などが出たとする大野晋氏の説である。氏はこの古形を *emchiw と推定し、アイヌ語には清濁の区別がないから、雅語からエゾ、古形からエミシ、エミス、エビスが出たと考えた。その理由として、“「ス」という仮名は、奈良時代には [tsu]、今日のツの音を表わしていたからである”と説明している。アイヌの人々が自分たちを enchiw, emchiw と呼ぶのが、古代の日本人には endzo, emitsi, emitsu, embitsu と聞こえたとすれば、後のエゾ、エミシ、エミス、エビスの語源である。

 これはまことに奇妙な一致に思われる。マライ語のサ行音がチャ行音にさかのぼるのと、日本語のサ行音がチャ行音にさかのぼるのは偶然の一致であろうか?ほのかな期待を寄せる方々には気の毒だが、偶然の一致であろう。閉鎖音(破裂音)が摩擦音化することは、世界中の言語でしばしば見られることである。日本語のハ行音が p にさかのぼるとしても、英語などのゲルマン語でも p から f の変化があるし、日本語でも16世紀には f で表記されたハ行音がその後 h などに変わった。スペイン語では f から h を経て発音そのものが失われている。言語の系統を探る上では、偶然と必然の見分けを慎重にしなければならない。

 

 日本語には、連濁という現象があり、北方起原論者には気の毒だが、マライ・ポリネシア諸語の鼻音結合に極めて類似する。しかしそれは、日本語の南方起原を証明する必要条件ではあり得ても、十分条件ではない。ある二つの言語が同系であることを言うには、まず第一に音韻の対応に支持された対応語根を十分に備えていなければならない。この点では南方起源説同様に北方起源説も無力である。対応語根に支えられた上で、さらに文法上の対応も確立しなければならない。たとえば、日本語では助詞という後置詞を用い、修飾語は被修飾語の前に立つが、マライ・ポリネシア諸語では前置詞を用い、修飾語は被修飾語の後ろに来る。南方起源論者たちは、こういう問題を意識的にか無意識的にか回避して、自説を主張し続けている。この大きな相違をどのようにクリアするのだろうか。


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