舟は何で漕ぐ?

上代の日本語には語中に母音音節がなかったか?

 上代の日本語の特徴として、語中に母音音節が立たないということが言われている。今日の「書いた」のようなイ音便や、「開催」などの語中のイなどや、長母音や二重母音などは存在しなかったと言うのである。正確には、語ではなく「音節結合単位」と言い、『日本語の歴史』では、語根や語幹に近いと言う。しかし日本語は、語根や語幹だけでは文を形成しない。名詞に助詞のついた「我が」や動詞の活用形に助詞のついた「言はば」、複数の語根の結合した「とほたふみ(遠江)」も音節結合単位に含めなければならない。ここでは単に「単語」とし、単語の第2音節以下を「語中」と呼ぶことにしよう。

 アマチュアの立場から、上代の日本語には語中に母音音節がありえたことを論証してみよう。ここでは単語の表記にカタカナを使うことがあること、発音記号やJIS規格以外の漢字やアクセントのついたローマ字を使うことができないので、ややこしい表現になることを許していただきたい。

 


舟は何で漕ぐ

 古語辞典があったら「櫂」を引いていただきたい。普通はカヒで引くだろうが、カヒでは「櫂」は見つからない。万葉集でもカイだからである。単語の中に現われた母音音節の唯一の例ではあるが、学者はどう解釈しているのだろうか?

 

声門閉鎖や h 音だったのだろうか?

 土井忠生氏と森末義彰氏が編集顧問をつとめ、亀井孝氏ら日本を代表する執筆陣の手になる『日本語の歴史』は、いくつかの可能性をあげている。その一つは、今日のア行音は母音音節であるが、かつては h 音を伴うものではなかったかというのである。もう一つはドイツ語の母音にあるような声門閉鎖を伴うものであったかもしれないとする。声門閉鎖を ? で表わせば、櫂は ka?i もしくは kahi の可能性もあり得るとしているわけである。声門閉鎖や hを想定する目的は、ただ一語「櫂」を矛盾なく説明するためのものである。

 奈良時代のころの中国語の音韻組織を知らないが、万葉仮名として漢字を選ぶとき、発音の近い文字を求めたことは当然であろう。当時の日本語に h 音があったとすれば、そしてそれがア行音になったとすれば、漢字の h 音はア行音で現われるはずである。しかるに h 音(実際は [x] であった可能性が高い)はカ行で受け止めている。この事実は、上代の日本語には h が音素として存在しなかったことを証明している。kahi はあり得なかったのである。

 

声門閉鎖や h 音は子音である

 声門閉鎖の存在あるいは非存在の証明は厄介である。言い換えれば、どちらも困難であるから、論拠とはなりにくい。しかし妥協せずに掘り下げてみよう。まず声門閉鎖から考えよう。

 英語やフランス語では文の中に単語が並ぶとき、先の語が子音で終わり後の語が母音ではじまるときは、リンキングする。標準イギリス英語では失われたはずの語尾の r も生き返ってくる。これは母音に声門閉鎖がないからである。ところが標準的なドイツ語ではリンキングしない。ドイツ語では母音が声門閉鎖を伴うからで、声門閉鎖が子音として働いていることを示している。声門閉鎖を [?] で表わせば、muss ich は muss ?ich であって、mussich とはなり得ない。ただし方言には声門閉鎖の無いものもあって、Muss'i dem,... の歌詞も知られているように、声門閉鎖の存在をある言語の特質とするのは、いささか弱い点も否定できない。

 上代の複合語を見てみよう。「長」+「息」は naga + iki であり、複合して nagaiki とならずに「嘆き」nageki となった。ここでは母音の甲乙の書き分けを無視していただきたい。上代の日本語には子音止まりの音節が見当たらないが、母音でさえも a + i が e になるという、子音プラス母音以上のリンキングを示している。この例は決して少なくなく、ある時期規則的に行われていたと考えられるほどである。もし仮に母音音節が声門閉鎖を伴ったとすれば、このような母音の融合現象は極めて散発的であるはずである。すなわちこれによって、母音が声門閉鎖を伴ったという仮定を否定するに十分であろう。声門閉鎖も h 音も否定されれば、櫂は kahi でも ka?i でもなく、kai であったと言える。

  

母音が落ちるのは、声門閉鎖や h 音の無い証拠

 櫂は単語として単独であるが、複合語や名詞に助詞のつく場合や、動詞の活用形も考えなければならない。まず複合語から見るとしよう。「吾妹子」はワガイモコではなくワギモコと読む。母音の連続を嫌って、「吾が」waga の a が落ちて imoko の i が残った。こういう現象は上代語に特徴的で、語中の母音音節の非存在の論拠でもあった。しかし連結によって一方の母音が落ちることが、母音音節非存在の論拠にはならない。櫂では h や声門閉鎖を想定しながら、一方では母音の連続を許さないとするのは、逆に h や声門閉鎖の非存在を証明するに等しい。h 音や声門閉鎖という子音があったとすれば、ワガイモコでは母音が連続しないことになるからである。

 「寝り」の意味で「い」という名詞がある。もしワギモコ方式が規則的に行われたとすれば、「安寝」yasui は yasi になったはずである。しかし古事記の歌謡に現われた現実はヤスイであって、複合語に母音音節が存在する。

 

助詞や活用形にも母音連続がある

 主格の古い助詞に「い」がある。古文では間投助詞と分類されているが、私見では、朝鮮半島に行われていた何らかの言語からの借用と考えられ、現代朝鮮語の主格助詞イと同源と思われる。上代には「関守い」のように使われて、「あの関守が」のように、主として主格の強調を表わした。助詞は自立性の弱い品詞で、別語に後置されることを基本とする。上代の日本語には子音で終わる単語が認められないから、「い」は必ず母音に後置されることになる。すなわち名詞プラス助詞イでは、必然的に語中に母音音節が現われるわけである。ちなみに朝鮮語でも i であって、それ自体に声門閉鎖などの子音的要素を伴わず、子音で終わる名詞に後置され、かつ先行する語の末尾の子音とリンキングする。母音で終わる名詞には、ガが使われることも暗示的である。

 動詞の活用についても、母音音節の存在が確認できる。ヤ行下二段活用では、未然・連用形がイで、命令形がイヨであるから、「老ゆ」では oi, oijo となって語中に母音音節が存在する。起原としては oji, ojijo が想定されるが、ji の音節がどの程度の期間存続したかも疑問であり、少なくとも上代においてすでに ji は存在しない。ワ行下二段活用についての wu も同様であって、「植う」の終止・連体・已然形には uu が認められる。すなわち語中に母音音節の立ちうる実例に他ならない。

 

 舟は櫂で漕ぐことは言うまでもない。櫂ただ一語でも、語中の母音音節の存在を証明しうるものである。やや立ち入って検証したが、以上で、上代の日本語には語中に母音音節が立たないという命題は、成り立たないことが明かである。そもそも否定の証明は総てを論じなければならないが、非存在の命題を反証するには一例をもってすれば足りる。一見面倒なようで、実は容易な作業である。日本語の専門家は、このような反論を予測していなかったのだろうか。


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