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- 心と文化のまほろば縄文に学ぼう -

土器の古さ
食の多彩さ
交流の活発さ
隣人愛の証拠
自然の脅威のもとで
新たなものを受容し変容する文化
現代の仙人食は


 

ページのトップに戻る 土器の古さ

 1万6780年前の土器は、大平山元(おおたいやまもと)遺跡1で発見されました。礫石器46点とともに炭化物の付着した土器片が見つかり、この炭化物中の炭素14の含有比を、名古屋大学年代測定資料センターで測定して分かったことです。1万6523年前という実年代への換算は、木や珊瑚の年輪を調べて、炭素14の残存率との誤差を調整したものです。

 土器は穀物の煮炊きのために発明されたものです。移動に適さない土器の出現は、ある程度の定住が行われていたことを推察させます。日本の近隣では、大陸で発見された1万5830年前のものと、1万5370年前のものが最も古いものです。中東では9310年前のものが最古ですから、アジア、特に日本の土器が世界最古のものである可能性が高いと言えましょう。


 
ページのトップに戻る 食の多彩さ

 縄文時代の食生活について、詳しいことは分かりません。が、遺物からある程度の想像はつきます。山形県の押出遺跡で見つかったクッキー状炭化物については、蕎麦談義で触れましたが、現代にも通用するようなものです。鹿児島県上野原遺跡で発見された煙道つきの連結土坑は、イノシシの薫製作りのためのもので、16基もありました。いずれも残留脂肪酸を分析した結果、成分が判明したものです。石川県真脇遺跡からは、イルカの骨が300体以上も発見されています。たぶん塩漬けにして、交易にあてたものでしょう。千葉県加曾利貝塚からは同じ貝が大量に発見されることから、干し貝の加工所跡と推定されるところもあります。

 米の栽培も思いのほか早かったようです。岡山県の6000年前の朝寝鼻貝塚から、縄文前期の稲、小麦、ハトムギのプラントオパールが発見されています。プラントオパールとは、イネ科植物の葉にできるガラス質で、植物ごとに形状に違いがあります。稲は日本には自生していなかった植物ですから、誰が持ち込んだかはともかく、栽培されていたことは確かです。水田耕作が発達するのは、さらに下って縄文時代晩期まで待たなければなりませんが、米は栽培植物の選択肢の1つであったと言えます。

 三内丸山遺跡から出土した栗の遺伝子を調べた結果、遺伝子のばらつきが非常に少ないことがわかりました。自然に自生するものは、遺伝子がこうも整ってはいません。これは良質の栗を選別して栽培したか、栗林を管理したかのいずれかです。場合によっては意識的に品種改良を重ねた結果と想像することも可能です。三内丸山には常時500人が生活をしていたと推定され、その食を支えるには、それなりの工夫があったものと思われます。

 食卓には保存のきく穀類や堅果類の他に、その時期にとれた果実がのぼったことでしょう。野菜も、もしかするとあったかもしれませんが、在来種は非常に少なかったようです。動物性タンパク質として、肉や魚介類も食べました。交易で遠隔地から得た塩漬けや薫製・干し貝などの保存食もご馳走だったでしょうね?もしかすると食塩も交易の対象だったかもしれません。

 歴史時代の日本酒は米を原料としますが、縄文時代の酒は何を原料としたんでしょうか?果物を発酵させたものでしょうか?残念ながら不明です。ただアルコール発酵をさせる酵母菌を餌とするショウジョウバエの卵が大量に見つかっていることが、酒造りが行われていた可能性を示唆するだけです。ずっと下った弥生時代のことですが、魏志倭人伝に「人性嗜酒」(倭人は、生まれつき酒好きである)とありますから、縄文人も酒を好んだに違いありません。縄文クッキーを作る人々です、酒を作らなかったとは思えないでしょう?想像を逞しうすれば、果実で作った酸味の強い酒ではなかったかと思われます。弥生時代から伝わると思われる「黒酒(クロキ)」という酒があって、今日では宮中や神社で少量作られるだけですが、野生酵母によるもので、酸味の大変強いものです。


 
ページのトップに戻る 交流の活発さ

 こういう多彩な加工食品は、集落間の分業が行われていたことと、加工食品が集落間で交易されていたことを物語っています。石器の材料としての黒耀石やサヌカイトの産地は限られていますが、全国各地から出土していますし、各地で出土する土器も、遠隔地で製作されたものが出土するなど、縄文時代を狩猟採集を基盤とする単純な自給自足の経済と片付けることは、最早できませんね?

 交流は海外とも行われていて、三内丸山遺跡などのストーンサークルの遺構が、中国北東部の牛河梁遺跡と共通の形式を備えていることも分かりました。円筒形土器も中国に類似したものが出土しています。漆の技法は日本で独自に開発されたものであることは確かで、最古の漆は日本で出土しました。技法とともに大陸から伝わったとする学者もいますが、妙な話ですね?漆はアスファルトと同様に土器や弓矢の接着や補修に用いられ、瞬く間に全国に伝播しています。mar-, ma- の「馬」の意味の語根が、日本からイギリスに至るユーラシア大陸の広大な地域で共通していますが、これも私たちの祖先のダイナミックな交流を物語っています。


 
ページのトップに戻る 隣人愛の証拠

 縄文人の隣人愛の証拠は、骨からしか知られません。人骨の出土は、人口の稠密だった関東では貝塚以外での出土例が少ないんです。関東ローム層という酸性の赤土が災いして、骨は溶けてしまって中々発見されません。僅かな出土例から隣人愛を云々するのは早計のようですが、逆に僅かなものにも見られるということでもあります。骨折の治療の跡の見られる骨や、ポリオで寝たきりであったと思われる痕跡の残る頭骨が見つかっています。当時は嬰児死亡率が高かったことから、平均寿命は極めて低かったと思われますが、15歳からの平均余命は16年と推定されています。治療の跡のある骨やポリオの痕跡のある骨の主は、それよりはるかに年輩者であることが分かっているんですよ。

 戦争は無かったと思われます。弥生時代に入ると、頭蓋骨に矢じりの刺さったものや、首無しの骨が各地から出土していて、集落間の闘争がそうとう熾烈なものであったことを窺わせますが、縄文時代にはそういう戦争を思わせるような出土人骨がありません。弥生の集落は農地から離れた高台にあって、周囲に壕を巡らし、常に敵に備えた環壕集落が多かったんですが、縄文の集落は開放的で、一般に広場と墓地の周囲に住居を巡らせたものでした。縄文人は、たぶん平和愛好家であったろうし、だからこそ1万年を超える長い期間、単一の文化が継続したのでしょう。多少の消長はあるものの、これほど長い間続いた文化は、世界に類がありません。

 弥生時代のはじまりを水田耕作の全国的普及の時代と位置づければ、それまで共有のもので流動性のあったあった土地が、水田という固定したものになり、集落の財産となったと言えるでしょう。その上、そこから上がる比較的安定した収穫という財産を得たことに加えて、大陸の北方からやってきた渡来系弥生人の好戦的な資質によって、平和な縄文人の末裔である在来系弥生人も戦闘に巻き込まれたものと考えられます。急激に増える人口に対処するためには新田が必要ですが、開墾するよりも、他の集落の水田を奪うほうが容易だったんでしょうか?今日では金銭という財産手段によって、いっそう好戦的になり、古き良き縄文の、平和で隣人愛に満ちた時代はさらに遠くなりました。


 
ページのトップに戻る 自然の脅威のもとで

 縄文時代ばかりでなく、現代も自然の脅威に変わりはありません。縄文時代には今日のような文明の利器に恵まれませんから、自然の脅威には無力だったでしょう。ただし手を拱いていたとは思われません。宅地造成のためと思われる小規模の土木工事は各地に見られますし、川の流れの一部を変えて、ドングリなどのアク抜き施設を作ったことは、そこかしこで確認されています。人口の動態から見ると、8100年前の縄文時代早期に3万人弱であったものが、5100年前の前期に13万人強、中期の4300年前に33万弱、3300年前の後期に20万強と、特に中期以降に停滞が認められます。前期から中期へかけての人口の増加は、新たに得た米によるところが多いでしょう。水田耕作の広まった1900年前の弥生時代には、75万人強と爆発的増加を示しています。

 中期から後期にかけて、それまで1平方キロ当たり3人と人口の稠密だった関東を中心とする東日本では、各地で人口が半分以下に減少しました。それに対して、1平方キロ当たり0.4人と少なかった中国などの西日本では、2倍前後に増加しています。地球規模の寒冷化が起こって、縄文人も冷害に苦しみましたが、西日本では米という穀物が地域に適していたためか、人口の増加につながったと考えられます。縄文の民にとって、自然の脅威は何よりも恐ろしいものでしたが、たとえ水田耕作によらなくても、米はそれを乗り切るための大いなる武器だったことでしょう。


 
ページのトップに戻る 新たなものを受容し変容する文化

 縄文時代前期末までには現代にも通じるような技術を創出しました。数え上げればきりがありませんが、漆の技術は今日に劣りません。三内丸山で出土した、いわゆる縄文ポシェットの手法と斬新なデザインには驚かされます。平和を愛する縄文の民は、新しい文化や人を受け入れることに積極的でした。海を渡る、国境の無い交流を続けたのも、そういう性格の為せることでしょう。

 北海道では、この性格が逆目に出ました。アムール河流域にあった、石刃鏃に代表される外来の狩猟民族に征服されたと思われる時期があるんですよ。何の証拠もない仮説ですが、それまで全国どこでも通じていた縄文の言語に替えて、アイヌの祖先は征服者の言語を受け入れたものと思われます。今日のアイヌは縄文人そのままの原オーストラロイドの形態を色濃く残していますが、言語は民族的形態の異なる樺太アイヌと同じアイヌ語に変わりました。クレオール化が起こったものと思われます。ただこういう変革をもたらした石刃鏃の民族は、突然出現したときと同じように、突如として北海道から姿を消してしまいます。彼らの石器や土器が、縄文時代早期の比較的短い期間の遺跡から出土するだけです。

 今日の日本の文化を象徴するものの多くは比較的新しいもので、真に日本で生まれたものは数えるほどもありません。現代の日本人が、着物を排し下駄を捨て、こたつを壊し畳を無くすのも、もっと便利な新来の文物に移行するからです。日本人の文化の伝統は物そのものにではなく、新しい物を自分たちに適合するように変容し、さらに発展させていく、そのことにあります。縄文の人々は、そうすることでいっそう自然との共生を計ったものでしょう。それこそ縄文の昔から伝えられた、私たちの文化なのではないでしょうか?


 
ページのトップに戻る 現代の仙人食とは

 現代の仙人食は、縄文から学んだ精神で、世界から受け入れる食の世界であると思います。その中から、特に健康をもたらすものを選び抜いた結果、魚介類や海草類などの海の幸や、蕎麦や茸類・果実などの山の幸に加えるものは「酸」であると考えています。私たちの身体には1キログラム近い微生物が共生しています。微生物との共生を考えるとき、発酵は避けて通れません。そして発酵は、最終的に酸をもたらします。

 ヨーグルトや漬け物の乳酸、果実に含まれるクエン酸やリンゴ酸、アルコールの発酵でできた最終物質の酢酸などを、旬の食物とともに効率良く美味しくいただくことを、誰にでもできる現代の仙人食として提案したいと思います。果物を酢に漬けてサワードリンクを作ることで、ステキな味の世界が広がります。こういったもので、金銭では得られない、豊かで健康的な生活が得られるものと信じています。あなたも食生活に酸を加えてみませんか?

 カルシュームや鉄などのミネラルは、体内への吸収率が極めて低いのですが、酸と一緒にとることで、吸収が高まります。ヨーグルトは腸をきれいにするとともに、免疫力を高めます。縄文時代からの食料である蕎麦には、良質のタンパク質が多く含まれているばかりか、ポリフェノールも豊富です。茄子のオリーブオイル漬けは、酢とオリーブオイルに加えてニンニクと唐辛子の効果も期待されます。茄子のアントシアニンというポリフェノールにも効果が期待されますね?季節の果物と酢で作るサワードリンクと、副産物で作る酸味の強いジャムにも健康効果があるでしょう。

 自画自賛をお許しください。髪だけを見れば、黒猫はまだ若者です。中性脂肪は86ですし、血糖値も血圧も総コレステロールも正常で、風邪を引くことも、便秘に悩むこともまずありません。色んな面で現役でやっています。週1回以上のペースで、1時間半は泳いできます。健康は自分で作るものだと思うんですよ。



更新:2004.4.10

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