ココロとケケレ

上代の日本語には母音調和があったか?

 上代の日本語には「母音調和」が行われていた痕跡があると言われている。たぶん大方の学者はそう教えられてきたし、そう信じているであろう。だが、母音調和とはいったい何であるか、どういう性質のものか承知の上で、母音調和の痕跡が認められると信じているのだろうか?

 かつて母音調和の存在を熱心に説き、後にその非存在を断言した学者は、私の知る限り大野晋氏一人である。氏は日本語をアルタイ語族に結び付けていたが、現在では日本語はタミル語のクレオールであるという説に変わり、私と電話で話したとき、当時校正中であった著書で詳しく述べるとのことであった。その言葉どおり、『日本語の形成』16〜20ページで母音調和の非存在を詳述している。180度以上の鮮やかな変身であるが、多くの学者には大野氏のような勇気が感じられない。自らの信ずるところをアマチュアに論駁されるようなことがあれば、潔く仮説を捨てるべきではあるまいか?

 


母音調和とはどういうものか?

 母音調和とはどんな現象だろうか?取りあえずフィノ・ウゴール語族のフィン語の母音調和の様子をインターネットのフィンランド語のサイトSuomen kieli − フィンランド語フィンランド語で調べてみよう。それによれば、“1) フィンランド語には母音が8個あって、前舌母音、中舌母音、後舌母音に分けられる。2) 1つの単語の中には、前舌母音と後舌母音が同時に現われることはない。3) 合成語には、それぞれの単語要素についてもこのルールが適用される”としている。ここで付け加えれば、中舌母音は前舌母音とも後舌母音とも組み合わされることのできる中性の母音である。

 フィンランド語の母音調和の説明はさらに続けて、単語が語尾変化するときにも、前舌母音用の語尾と、後舌母音用の語尾を使い分けなければならないと述べている。特にこの点は重要である。フィンランド語の「語尾」を日本語に置き換えれば、前にくる名詞には助詞が、動詞には活用語尾と助詞がついて、母音調和しなければならないということである。そして母音調和のこういう決まりは、フィンランド語ばかりでなく、アルタイ語族の色々な言語の母音調和についても同じようなことが言えることである。

 タイトルのココロは日本語では乙類のオ段の連続で、フィンランド語の前舌のオとほぼ同じ発音、ドイツ語で o の上に点々のついたオー・ウムラウトの発音が想定されている。唇を [o] を発音するときの形に丸めた状態で [e] を発音すると出る音である。当時の東国では唇の丸めが弱かったのか、ココロがケケレという形で記録されている。ココロでもケケレでも、単語の最初の発音形式が最後まで続くことから、母音調和の痕跡と言われているのである。

 


母音調和が先?

 西洋で比較言語学が開花するには、偶然の発見が切っ掛けになった。植民地主義の時代にインドの古代言語サンスクリットに接して、ギリシャ語やラテン語と、違い方に規則性があることを発見したことによる。今日私たちの言う「音韻の対応」である。それまでラテン語はギリシャ語の方言と見なされていたが、ギリシャ語よりもさらに複雑な文法を持つサンスクリットが方言であるはずがなかった。ひと頃はサンスクリットからギリシャ語などが出たという考えもあったが、19世紀に比較言語学が確立すると、インド・ヨーロッパ祖語の再建へと進んだ。

 日本で言語学が学ばれてから、日本語と祖先を同じくする言語を求めるようになったが、ここがヨーロッパと大きく異なるところである。まず日本語はアルタイ諸語の1つであるに違いない、あって欲しいという願いが先行した。同系であるとすれば、音韻の対応に支えられた共通語彙を持つことと、文法が対応することが求められる。語順は大変よく似ているので、ことは容易に思えた。がしかし、対応すると思われる語彙は極めてわずかで、アルタイ諸語に共通する母音調和も認められないという苦境に陥っていた。

 

 

有坂・池上の法則は母音調和の法則か?

 昭和初期に、東京大学の橋本新吉教授が「上代特殊仮名遣い」を発見し、イ、エ、オ列に甲乙の音節の使い分けのあることを発表した。それを整理した二人の若い研究者が、

(1) 甲類オ列音と乙類オ列音は、同一結合単位内に
  共存しない。

(2) ウ列音と乙類オ列音は、同一結合単位内に共存
  することが少ない。特に2音節からなる同一結
  合単位内には、ウ列音とオ列乙類が共存するこ
  とはない。

(3) ア列音と乙類オ列音とは、同一結合単位内に共
  存することが少ない。

という原則を見いだし、後に、有坂・池上の法則と呼ばれている。

 日本語北方起原論者は、この発表を、あたかも母音調和の法則でもあるかのように歓迎し、これをもって日本語には母音調和が存在したと考えるに至った。だが有坂・池上の法則は、同一結合単位内(=語根内)における乙類オ列音の法則であって、母音調和の法則ではない。乙類オ列音はオの円唇性とエの前舌性を合わせ持つ母音であり、舌の位置ではイ列エ列の範疇である。イ列とエ列にはそれぞれ甲乙の別があるのだから、仮にこの法則が、乙類オ列音はそのどれと組み合わせができ、どれと排他的関係にあるかを言っているならば、あるいは母音調和の痕跡を示していると言えなくはない。

 母音調和は、まことに頑固な決まりであって、例外を認めない。たとえ外国語の固有名詞であろうとも、単語の中の母音を同じ音色に染め変えてしまう。「語尾」と呼ばれる接尾辞や後置詞の部分も、外来語につける場合も当然のこととして母音調和の法則に従う。この法則の(3)のように、多いとか少ないということは問題にならない。総べてそうなるか、全くならないかのいずれかである。

 有坂・池上の法則(2)の後半は、例えば「黒」クロにおいては、ロは甲類であて、乙類ではありえないことを言う。がもしも、助詞「の」をつけたらどうなるだろうか?結合単位とは、語幹、語根と言い換えても大差なく、有坂・池上の法則では語尾以降への適用を排除している。しかし母音調和は語尾などにも及ぶ性質のものである。いな、語尾に及んでこそ、母音調和と言えるのである。「の」は「乃」や「能」で書かれていて、乙類オ列音である。「巣」スや「津」ツなどウ列音1音節からなる単語に助詞「の」がつくときは、この法則は適用されない。接尾辞や助詞に母音調和が及ばないことからも、母音調和の存在を容認することはできない。

法則(3)は例外を認めている。上代においてすでに「麿」という例外がある。「麿」は「麻呂」とも書ぐが、呂は乙類のロを表わす。もし仮に、例外を許さないことを特徴とする母音調和が上代に行われていたとすれば、「麿」は上代語として存在し得ない単語と言わなければならない。

 乙類オ列音を含む四段活用の動詞を考えてみよう。「漕ぐ」と「染む」のコ、ソはともに乙類である。「染む」は「染まる」の古い形である。いずれも終止形と連体形はウ列音で、同一語中に乙類オ列音とウ列音が共存して、法則(2)と合致しない。有坂・池上の法則は、結合単位として活用語尾を排除しているが、母音調和の真骨頂は、語尾が単語の母音と同じ発音傾向になることに現われる。有坂・池上の法則を、母音調和の法則と読み替えること自体が誤りである。

 

 

母音調和はどう発生したか?

 母音調和とは、単語の最初の音節の発音の傾向が単語全体を貫き、語尾、接尾辞、助詞に及ぶ規則である。ある音韻が他の音韻に影響を及ぼして、発音を同じ傾向に変えることを「音韻同化」と言い、音韻同化が前から後ろに行われることを「順行同化」と、後ろから前に変化を与えることを「逆行同化」と言う。英語に見られるような、foot の複数形が feet であるのは、かって語尾に -is がついて、これが前の母音を変えたからで、後ろから前への逆行同化である。音韻同化は、世界中どの言語にも見られる現象であって、日本語にも存在する。「我が大君」ワガオホキミをワゴオホキミとするのもその例で、上代語に母音調和が行われていたとすれば、このような逆行同化はありえない。

 母音調和は、語頭に強勢アクセントを持つか、あるいはかってそうであった言語に特徴的な発音の規則である。強勢を持つ語頭の音節に続く音節が全て音韻同化することが、文法的規則性を持つに至った現象である。しかるに日本語は、高低アクセントと拍を基調とする言語で、音節の独立性が高い。この性質は詩歌の定形に五と七の拍が認められることに顕著に現われていて、古くからのものを伝えていると言ってよいだろう。音韻同化も、英語などの強弱アクセントの言語にくらべると極めて散発的である。日本語は、母音同化を育むような環境を持たなかったと断定してよいのではなかろうか。

 

 北方起原論者に期待したいことは、たとえばツングース語などの語彙をくまなく収集して、アルタイ語族の祖形を再建し、それと日本語の語根との対応を探ることである。母音調和は言語の系統の決め手ではない。無理な論戦で傷つくことで、本来最初になすべき作業を怠ってはならないのではあるまいか。


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